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中国史上唯一の女帝

http://jp.youth.cn 2014-03-28 15:59:00

  武則天(ぶそくてん)は、中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照(曌)。日本では則天武后(そくてん ぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。

  出生

  利州都督武士彠と楊夫人の間に次女として雨の降る日に生まれた。そして生まれて間もない頃、袁天綱という名道士が来て彼女の相を占い、人相を見た袁天鋼は必ずや天に昇ると述べたという伝承がある。これを聞いた武士彠はその場にいた者たちにこのことを忘れさせたが、乳児としての武照の容姿が極めて美しかったこともあり、将来の皇后を期待した武士彠はその予言を実現すべく高度な教育を与え、幼名を媚娘と命名した。

  媚娘が幸せな生活を送ったのは武士彠が死去する8歳までだった。父の亡き後、媚娘は異母兄弟に虐げられる生活を送ることとなった。少女期の媚娘は漆黒の髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、聡明な頭脳を備えていたと史書に記録されている。

  14歳で太宗の後宮に入り才人(妃の地位。正五品)となった。当初は太宗の寵愛を受けていた。しかし「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」と流言があり、武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらすことを恐れた太宗は次第に武照を疎遠にしていった。李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は李君羨の処刑後もなお、武照がいかに魅惑的であろうとも武照と距離を置き続けた。こうした状況下で太宗の子である李治(後の高宗)が武照を見出すこととなった。太宗に殺害されることを恐れた武照は李治を籠絡、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる。この時点で太宗は未だにこの媚娘(武照)の貞操を犯していなかったという噂もあった。

  太宗の崩御にともない出家することとなったが、額に焼印を付け仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。

  その頃の宮中では、太宗の後を襲った高宗の皇后だった王皇后と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らす為、高宗に武照の入宮を推薦した。武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃から逸れたが、王皇后も疎遠になった。

  立后

  永徽6年(655年)6月、それまで昭儀(後宮の位の一つ)だった武照を新たに設けた宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、宰相?韓瑗と來濟の反対で実現はしなかった。同年、中書舍人?李義府などの側近が皇后廃立と武照擁立の意図を揣摩し、許敬宗、崔義玄、袁公瑜等の大臣が結託し高宗に武照立后の上奏文を送った。高宗は王皇后を廃し、武照を皇后に立てる事を重臣に下問した。

  この時の朝廷の主な人間は太宗の皇后の兄である 長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良、高祖李淵と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の四人である。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣はこの会議には欠席していた。その後、高宗が直々に李勣に下問した所、「これは陛下の家庭の事です。なぜ臣下に聞くのですか。」と答え、皇后の廃立に力を与えた。後世の史家はこの李勣の返答で武照の専横が止められなくなったと非難するが、後に長孫無忌と褚遂良が武則天に殺され、沈黙した于志寧も左遷された事を考えると無理もないと思える。それだけ武照は恐ろしい女性であった。

  10月13日(11月16日)、高宗は「『陰謀下毒』の罪により王皇后と蕭淑妃を廃し庶民とし投獄した。彼女らの父母兄弟なども官位を剥奪し嶺南に流す」という詔書を発布した。その7日後、高宗は再び詔書を発布して武照を立后すると共に諫言した褚遂良を潭州都督へ左遷した。

  11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きにした後、生き返らないように四肢切断の上、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込ませた。王氏と蕭氏は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後絶命したという。更に遺族の姓を侮蔑的な意味を込めた字である「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)と「梟」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされる)に改称させた。蕭氏は死の間際に、武照が生まれ変わったら鼠になり、自身は猫に生まれ変わって食い殺してやると呪いながら死んだといわれ、後年の武則天は宮中で猫を飼うのを禁じたといわれる。

  垂簾政治

  武皇后は高宗に代わり垂簾政治を行った。唐初は隋と同じく基本的に貴族政治であり、関隴貴族集団と呼ばれる貴族層が権力を握っていた。隋代から科挙は行われていたが、この頃は科挙官僚は低い役職にしか登用されず、科挙による人材登用と国政運営には限界があった。武皇后は貴族の積極的支持が無いと理解していたため、権力を維持するべく新しい出身層の人材を積極的に登用した。登用された人材としては狄仁傑?姚崇?宋璟などがいる。これらは非貴族身分の出身であり、貴族制下では出世が見込めない人物だった。武皇后はただ単に低い身分に主眼を置いたのではなく、その登用には才能と武皇后への忠誠を重視している。姚崇と宋璟は後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いた。

  顕慶5年(660年)に新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こす。百済を滅ぼした後、倭国(日本)?旧百済連合軍と唐軍(属国の新羅も唐軍に兵を供出)が戦った白江口の戦いにも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼし(唐の高句麗出兵)たが、武皇后の暴政と営州都督?趙文翻の横暴により契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、遼東遼西の情勢は却って悪化した。

  出自を問わない才能を発掘する一方で、武皇后は娘の太平公主や薛懐義?張易之?昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思?武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。また佞臣の許敬宗などを任用し、密告政治により反対者を排除、来俊臣?索元礼?周興ら「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行った。この状況に高宗は武皇后の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し皇帝の権力奪還を許さなかった。

  この時期の事件として、高宗が晩年病を得た際、高宗が鍼治療を望んだが武皇后がそれを知ると治療を中止させた、という逸話が伝わる。

  弘道元年(683年)、高宗が崩御すると子の李顕(中宗)が即位するが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、太平公主を使って中宗を廃位しその弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじる事を余儀なくされた。

  武則天の専横に対して皇族が次々と挙兵したが、いずれも打ち破られた。民衆は武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こる程の情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく大勢力には発展しなかった。

  登位

  宗族の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った。ただし帝位簒奪をいつの時点で企図したのかは研究者の間でも定説がない。

  天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ。

  帝室が老子の末裔だとされ「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。これは後の日本の国分寺制度の元になった。

  洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天がモデルといわれる。

  晩年

  晩年の武則天は病床に臥せがちとなった。この状況に唐復活の機運は高まり、神龍元年1月24日(705年2月22日)、宰相?張柬之により武則天は退位を迫られて中宗が復位、国号も唐に復した。しかし武氏の眷属は李氏を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思などには及ばず命脈を保った。皇帝の母である太后でもあるため、中宗は退位した武照に則天大聖皇帝の尊号を贈り、その後まもなく武照は死去した。

  706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。乾陵の地下宮殿には貴重な文物が当時のまま残っていると期待されているが、発掘の予定はない。

编辑:amy 来源: 中国青年網

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